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第3話 「牌を握らない少女」

Author: 辻野幸枝
last update publish date: 2026-07-22 06:09:53

 豪華絢爛な王宮の回廊に、リリィの足音だけが静かに響いていた。

磨き上げられた大理石の床は、彼女の姿を鏡のように映し出す。

窓の外に広がる庭園は、色鮮やかな花々が咲き乱れ、陽光を浴びて煌めいていた。

その中心には、麻雀牌の形をした巨大な噴水が清らかな水を吹き上げている。

この世界では、麻雀こそがすべてを司っていた。政治も文化も、日常の細部に至るまで。

麻雀牌は単なるゲームの駒ではなく、力の象徴であり、運命の鍵だった。

しかし、その美しさの裏に潜む残酷な現実が、リリィの胸を締め付ける。

「リリィ、気をつけろ」

背後から聞こえた低い声に、リリィは一瞬立ち止まった。

声の主は、王宮警備隊の若い兵士だった。

「貴女に近づく者は多い。王子様の庇護があっても、敵はいる。警戒を怠るな」

リリィは小さく頷いた。

「ありがとう。でも、私はもう怖くない。少しずつ慣れていくしかない」

その言葉に兵士は静かに頷き、彼女の後ろから離れていった。

王宮での生活は、一見華やかで恵まれていた。

清潔な部屋、規則正しい食事、着るものに不自由はなかった。

だが、その実態は凍てつくように冷たかった。

貴族や他の臣下たちは、リリィを「役立たず」と嘲笑い、陰で|蔑《さげす》んでいた。

「あら、噂の『牌を握らない姫』ね」

広間の一角で、貴婦人たちのささやき声が耳に入った。

「雀士としての才能が全てのこの国で、牌も握れないなんて、王子様のお気に入りだとはいえ、本当に情けない話よね」

「外の世界から来たって話だけど、八百長で追放されたって噂もあるわ。そんな人間が、この聖なる王宮にいるなんて信じられない」

「ねえ、知ってる? あの子が王子様の庇護を受けてるから、私たちも黙ってるけど、本当は誰も歓迎してないんだって」

リリィは何も言い返さず、ただ俯いて通り過ぎた。

反論しても無駄だ。

ここでは麻雀の強さこそが絶対の価値であり、彼女のような「牌を握らない者」は不必要な存在にすぎなかった。

王宮の廊下を歩く度に、冷たい視線や|囁《ささや》きが刺さる。

彼女は心の中で何度も繰り返していた。

(私に価値はないのか……?)

だが、それでもどこかで、ほんの少しだけ自分を信じたい気持ちがあった。

ある日の夕暮れ、リリィの部屋の扉がノックされた。

「リリィ、少し話がある」

その声は、まぎれもなくセディリオ王子のものだった。

彼は優雅な衣装をまとい、しかしどこか疲れた表情を浮かべていた。

「どうぞ、お入りください」

リリィは丁寧に礼をし、扉を開けた。

部屋は質素だった。贅沢な装飾は一切なく、窓からは王宮の裏庭が見える。

王子はゆっくりと部屋に入り、椅子に腰掛けた。

「リリィ、このままでは君の立場はどんどん苦しくなるばかりだ。ここで牌を握らずにいることは、長い目で見て得策ではない」

リリィは目を伏せた。

「私にはもう牌を握る資格はありません」

「資格、ですか?」

「私は……麻雀を裏切った。仲間のためとはいえ、八百長に加担してしまった。その罪は消えません」

リリィの声は震えていた。

「正々堂々と打つべきものを、私は曲げてしまった。だから、もう牌を握るのが怖い」

その言葉に、セディリオは深く息を吐いた。

「わかっている。君の気持ちはよくわかる。しかし、ここは違う世界だ。麻雀はただのゲームではなく、この国の命そのものだ」

「だから、私に何を望むのですか?」

「君に無理に牌を握らせようとは思わない」

王子は優しく微笑んだ。

「だが、麻雀を打たずとも、この国で生きていく術はある。国営雀荘の雑用係だ」

リリィは驚いた。

「雑用係……ですか?」

「そうだ。牌を直接扱うことは避けられないが、打つことは求めない」

「それなら……」

リリィはわずかに希望を感じた。

翌日、リリィは国営雀荘の制服に身を包んでいた。

地味なデザインの制服は、王宮の華やかさとは対照的だった。

雀荘の扉を開けると、すぐに熱気と煙草の匂いが鼻をついた。

麻雀卓からはカチャカチャと牌が叩かれる音が鳴り響き、男たちの怒声や笑い声が飛び交っていた。

「おい、そこの雑用係! お茶まだか?」

怒鳴られ、リリィは慌ててお茶を運んだ。

「もう少し手際よくしてくれよ」

男性客は苛立ちを隠そうともしなかった。

ここでの従業員もまた、リリィに冷たい視線を投げていた。

「王宮から来たんだろうが、牌も打てないのに何ができるんだ?」

「コネで入っただけじゃねえか」

陰口は日常茶飯事だった。

リリィは心を閉ざし、ただ静かに仕事に没頭した。

掃除や配膳、灰皿の交換、そして麻雀牌の山を整える。

牌を握ることは避けられなかった。

ひんやりとした感触が指先に伝わる度に、胸の奥から冷たい痛みが押し寄せる。

(もう二度と触りたくなかったのに……)

過去の栄光と絶望が脳裏に浮かび、目の奥が熱くなる。

その日も、掃除用具を片手に雀荘の廊下を歩いていると、背後から落ち着いた声がかかった。

「あなたが……噂の『牌を握らない姫』ですか?」

振り返ると、長身で端正な顔立ちの男が立っていた。黒い|外套《がいとう》に金糸の装飾を施し、洗練された物腰から只者ではないことがわかる。

「はい……そう呼ばれているようです」

男は柔らかく微笑んだ。

「誤解しないでください。私はそれを悪く思っているわけではありません。むしろ、興味があるのです。牌を握らずにこの国で生きるという、その覚悟に」

リリィは一瞬、返す言葉に迷った。

「……覚悟、なんて立派なものじゃありません。ただ、もう打ちたくないだけです」

「ええ、それでも構いません」男は軽く会釈し、まるで舞踏会の挨拶のように優雅に言葉を続けた。

「私はヴァイス。国営雀荘の管理を一部任されています。あなたのような存在は……この国の中では稀有だ。覚えておきましょう」

「……ありがとうございます」

ヴァイスは微笑みを深めたが、その瞳の奥には測りかねる影があった。

「またお会いしましょう、リリィ嬢」

そう言って背を向けると、彼の黒い|外套《がいとう》は静かに廊下の角へと消えていった。

リリィはしばらくその場に立ち尽くした。礼儀正しく穏やかな口調の裏に、何か冷たい気配を感じ取ったからだ。

ある日、卓を拭いていた時、不意に牌の山を崩してしまった。

牌がカチャカチャと音を立てて床に散らばる。

周囲の雀士たちの視線が一斉にリリィへ向けられた。

「おい、何やってんだよ!」

一人の男が怒鳴りながら牌を拾い上げ、リリィに突きつけた。

「こんな牌、もう打てねえだろうが。ちゃんと洗っとけよ!」

リリィは震える手で牌を受け取り、声も震えて謝罪した。

「すみません……すぐにきれいにします」

その夜、リリィは部屋でひとり泣いた。

麻雀牌を汚れたもののように扱われた屈辱と、自分が過去に犯した罪の重さが胸を締めつけていた。

だが、そんな雑用係の日々にも、わずかな光はあった。

雀荘の片隅に、貧民街から来たらしい子供たちが集まっていた。

壁の落書きのようなルール表を真剣に見つめ、熱心に麻雀の話を交わしている。

「この牌はドラだよ」

「えっ、本当? じゃあすごく価値があるの?」

「そうだよ! ドラは1ポイント、得点が高くなるんだ」

彼らの瞳は希望に満ちていた。

リリィはその姿を見るたび、心が揺れ動いた。

麻雀の闇を知り、すべてを失った自分。

それでもこの子たちは、麻雀を未来への光として見つめている。

(麻雀は、人を傷つけるだけじゃない。人を救う力も、きっとある……)

ある日、リリィは雀荘の廊下で、小さな声で呟いた。

「私、もう一度だけ……牌を握ってみてもいいのかな」

不意に背後から声がした。

「リリィ、無理するなよ」

振り返ると、そこには王宮の若い護衛、カイルが立っていた。

「あなたも、私のことを?」

リリィは驚いた。カイルは、王子の命令で彼女の警護にあたっているだけでなく、密かに彼女の苦しみを理解していた。

「君は強い。でも、今は休むことも必要だ」

カイルの瞳は真剣だった。

「ありがとう……」

その一言に、リリィの胸は少しだけ軽くなった。

日々の雑務を続ける中、リリィは少しずつ周囲の人々の顔を覚えていった。

麻雀に熱中する男たち、勝負に一喜一憂する女性雀士、そして時折見せる子供たちの笑顔。

この世界の真実は、複雑で、多面的だった。

彼女は自問した。

(この世界で、私は何をすべきなのか?)

そんな折、雀荘の奥で一人の女性雀士がリリィに話しかけてきた。

「ねえ、あなた……牌を握らないの?」

リリィは戸惑いながらも、静かに頷いた。

「そう。もう怖くて……でも、ここに来て少しずつ変わってきた」

女性は優しい笑みを浮かべた。

「あなたのこと、みんな噂してるわ。牌を握らない姫、ってね。でも、無理しなくていいのよ」

その言葉に、リリィは涙ぐんだ。

「ありがとう……」

王子の期待、貴族たちの冷たい視線、雀荘の喧騒と孤独。

すべてが彼女の心を揺さぶった。

それでも、リリィは少しずつ、自分の居場所を見つけ始めていた。

牌を握らずとも、この世界で生きることはできる。

それは、新しい希望の始まりだった。

夜、宿舎の窓から満天の星空を見上げるリリィの目に、小さな決意が宿っていた。

「いつか、もう一度……牌を握る日が来るかもしれない」

彼女の心には、まだ消えない炎があった。

 王宮の静寂とは対照的に、雀荘の喧騒は一層彼女の孤独を際立たせた。

 だが、リリィの胸の内には確かな変化が芽生えていた。

 過去の傷を癒すには時間が必要だが、この場所での毎日の小さな交流が、彼女の心に新たな色彩を与え始めていたのだ。

「焦らなくていい。自分のペースで進めばいい」

 その言葉が、どこからともなくリリィの心に響いた。

 たとえ今は牌を握れなくても、麻雀という大海に再び漕ぎ出す日が必ず来ると、彼女は密かに信じていた。

明日もまた、少しずつ歩みを進めよう──。そう心に誓いながら、リリィは静かに目を閉じた。

――まだ終わりじゃない。私の物語は、これからだ。

 

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